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この間の日記のつづき

Mon.16.06.2008 0 comments
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6月14日の日記に「限界過疎」という言葉について書いたあと、
母から「日記を見たよ」というメールが届き、母の考えが書かれてありました。
少し長いけれど、下に添付します。
長いので、お茶でも飲みながら読んでください。




あなたの日記に木浦の事を取り上げていましたね。
「限界過疎」その言葉の響きに、とても悲しい響きを感じたと書いていましたね。
「限界過疎」この言葉は長年日本の過疎の村々を廻り、消え逝く
日本の里山の現状を研究されてきた長野大学の教授が作られた言葉です。
何度となく過疎地の危機を訴え続け、一向に改善されない政府の政策、
そして国民の意識に最後通達という形で
敢えて「限界過疎」という強い言葉を使って、警鐘を鳴らしているのです。

確かに悲しい響きです。
しかし、木浦を始めとして日本中に数え切れないほど、住む人がなくなり、
消え逝く村々があるという悲しい現実があるのです。
木浦は50人足らずの村民の中、
所謂後期高齢者(75歳以上)はその8割り以上になります。
全く産業がなく、農業、そして林業とも衰退してしまった村。
つまり村民の殆どが年金生活者です。
教授はずっと以前からこういった村々の現状を訴え、
農業や林業の支援を国に訴えて来ました。
しかし国外に農産物や木材を依存する国の政策は変わらず、売れない農産物、
売れない木材と、収入源を失くした豊山々は荒れ果てていくばかりなのです。
結局若者は現金収入を求めて村を去り、お年寄りのみの村となり。
そのお年よりたちの生活を支える頼りの年金すらも、若者の減少、
国民年金不払い者の増加でいつ破綻するかわからない状態です。

あと10年後、果たして何人の人がこの村に生き残っているでしょうか?

そういった現実をしっかり捉えて、考えて欲しい、そういう思いで敢えて
「限界過疎」という言葉を使われているのです。
確かにもう限界なのです。

1年に数回帰る人にとっては、豊な自然に囲まれた美しい故郷なのかもしれません。
でもそこに実際に暮らしている人たちは、すでに限界に近い生活を強いられているのです。
一人暮らしの老人たち。苦労して作った作物も殆どが鳥獣たちに荒らされてしまう。
それを防ぐ策もないままに。
厳しい現実が「限界過疎」という言葉に顕著に表れていると母は思います。
木浦が大好き。だからこそ、その美しい山里をどうしたら守り、これからも
残していけるのか・・・真剣に考えなくてはいけないのです。

感傷に浸った後は、その現実をしっかりと見つめ、自分に何が出来るか
この国の将来はどうあるべきか、考えて欲しいと願っています。




言葉ひとつでイメージが決定されてしまうから、
その言葉のうしろにあるものを想像しなければ、と自分で書いておきながら、
「限界過疎」というショッキングな言葉に動揺し、
悲しい響きだと嘆いただけの自分が少しあさはかに感じました。

でも、悲しい、と言っているだけでは、なんにもならないんですね。
その言葉が持つ、その奥深くに抱えている問題はすごく大きい。
知ること、考えること、体を動かすこと。
それがつながるように、何ができるか、考えたいと思います。

※昨年の夏に木浦に帰ったときに撮った写真を
 Flickerのサイトにアップしました。
 よかったら見てみてください。お茶でも飲みながら。

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